昭和四十五年七月一日 月次祭
神を信ずる氏子は多いけれども、神に信じられる氏子が少ない。神様に信じられるという事はお徳を受ける事でございましょう。神を信ずるという事はおかげを受けるという事でありましょう。どちらも大事であります。どうぞその両方がいよいよ育ちいよいよ確信に満ちたものになっていかなければなりません。神に信じられるという事がお徳をうけて行く事なら、神を信ずるという事はおかげを受けるという、だからその両方が育っていかなければなりません。神を信ずるという事は、ほとんどの人がご信心を頂いてまあ三年、五年又は10年と続いておる人達ならば神様を信じておるからこそ信心が続けられておる訳でございます。けれどもそのおかげを受けておる姿、おかげを受けておる状態、又は自分の心の中に感じておる状態、これがまあ一番分かりましょうね。心は信心の定規じゃとおっしゃるのですから、自分の心の上に神様を信じておるという度合い。信じてないという事はない、信じてはおる。けれども信じておる度合いというものは、それぞれに違い又限りがない無限なものなのです。
私、先日二十八日の信徒会のもう八時も過ぎましてからでございましょうか、文男先生達が前から云いよりました、大川に有名な料亭がありましてね、そこでは‘えつ’という魚の料理。もうその‘えつ’を料理する料理人がそこだけにしかおらんと。全国的に大変有名な料理ですけれどもそれがね、旬の間しかでけんもうちょっとした時期。それが今が丁度時期だという訳です。それでその私が美味しいもん食べておるのを知っておりますから、ぜひ私を一回連れて行きたいと先生云うとりましたけど、丁度その日菊栄会の方達が何人か残っておりましたから一緒に、急に思い出しましてから参りました。大川ですからやっぱそうとうの道のりがありますね。そこまでわざわざ夕食を。他の先生方は夕食をすませとった、私だけがすませてなかった。それをわざわざ晩餐をあちらでというので行きました。そして私も大抵いやしんぼうですから、詳しいはずだったけれどもえつ料理だけは頂いた事がなかったんです。もう話には聞いておったけれども、何か小さなこう‘さより’のような魚かなんかのように思うておった。ところがですね、どんな魚だろうかと云ったら仲居さんがすぐそのえつの魚のねそのままの姿の生の魚をヒレを立てて皿にのせて「これがえつでございます。」と云って見せてくれました。それがねもうほんのちよっとした時期だけしか美味しい時期がないと云うです。私はそれでとにかく十一種類からの料理をえつだけで出す。私はだいたい川魚をよく頂きませんのですけれども、一番初めにえつの佃煮が出たんですよね、もうこれだけでも今日来たかいがあったというほどに美味しいです。そしてまあ、いろいろ仲居さんの説明を聞かせて頂いたんですけどもね、昔、お大師様があの地方を修行して回られる、時にあの広い筑後川の堤防、もうちょっと…とにかく真下に見えるような所にその料亭があるんです。この川はもと橋がなかった、渡し船であった。それがその「自分はこうして渡し賃を持たんが」と云うたら「まあ、お乗りなさい」と云うて親切に渡してくれた。そこでね、渡り終わってからそこにあるよしの葉を取ってね「これは、あなたにお礼の印だ」と「これからはこの魚でこの地方が潤うぐらいにはあるだろう」と云うてお大師様がね、よしの葉を川に投げられるとねそのまま【 】それが本当によしの葉の姿そのまま、あんな魚見た事がない。よしの葉そのままの平たい魚です、大変小骨が多いのでとにかく包丁の目だけが百三十入れるそうです。それでなかなか技術がいるらしいですね。もうその塩焼きし、お刺身にしお吸物にし天ぷらにしいろいろにして出してくれます。そん時に私はそれがね、その後のお大師様のああいう奇跡のお話はどこにもたくさんありますよね。
「その栗をひとつくれないか」と「いいや、この栗は食べられません」と云ってからやらなかったから「ああそうか」と云われた時には、その栗は石になっとった。だから石栗というて、そこではもう食べられない栗がなるという地方があったり、いわば八女の中腹でいっぱいの水を所望された。下のほうからくんでこなければならない「そんならちょっとお待ちなさい、私が今冷たいのをくんでくるから」と云うて叔母さんが下の方に下ってくみに行って、その冷たいお水を一杯さしあげた。「美味しい。これからここではね、水の不自由はさせんぞ」と云うてね、杖を立てられた所から水が涌くようになった。というようにですね、そういうお話がもうお大師様のお話には数限りないほどございます。あらゆる地方にそれがあります。それがどこまでが真実か分かりませんけれども、奇跡というのは真実をかぐほどしの事なんですからね、私はそれは疑いませんですね。【 】お徳を受けたらそういう事が出来る、いやその事を信じて私はなせたらそれが出来る。あの十戎なんか御覧になった方はですね、例えば海が真っ二つにわれて道が出来るというほどしの事。それは、あらゆる大宗教のしゅうそう又はかいそうといったような方達の所ではそういうやはり奇跡がどうして起きるかというとねそれはその方の信ずる心がそのままおかげになるのです。だから信ずるという事は大変な事だと思いますねえ。私共の場合、神様を信じておるというけれども、信じておるという事はね、それはもう本当に私がおかげを頂いておる程度しか信じてないというていいだろうと。信じておる、いわゆる信じるということには限りがない。その限りがないほどの信念、いわゆる信じる心というものを…だからこれでよいという事はありません。信ずる心というのはね、只拝んどりますとか参っておりますというおぼろげながら信じておると云ったようなもので、確信に満ちたいわゆる「神は信ずる者を信ずる」と仰せられるほどしのおかげを受けるという事は並大抵の事ではない。修行が必要である。修行をかいだらすぐにおかげが薄うなる。この近所にもある有名な信仰宗教がありますね。だんだんその云わっしゃる事をきかんごとなってくる。すると「お山に登る」というて弟子さん達をつれてからお山に1ヶ月なら1ヶ月こもらっしゃるとです。今度おりてこらっしゃるとやはりご比例が違う。いわゆる云う事でんぽこぽこ当たるといったようなその宗教がこの近所にでけてますよね。けれども、ほんならしばらく今度は町の方に下りてきてから、そのなまくさけどん食べよるとちゃんとしまえてしもうてからもう薄うなってしまう。だから又山に登らんならんという訳なんです。ですからそういう所をですね、金光様の御信心は家業の行とおっしゃる。表行よりは心行とおっしゃる、家業の行又は心行というような行の中からです、ここに水も漏らさんほどしの修行がでけるところから信じてやまない心というものが生まれてくる訳でございますね。
先ほど、久富 繁雄さんが前講をつとめておられました。先月という月は仲良う楽しゅう有り難うと一日の月次祭の時に「今月はこれで行く、これが今月の合楽の焦点だ」と親先生が云われたからもうその事に本気で取り組ませて頂いたが一月過ぎ去った今日、その一月の事を深く反省させて頂くと相すまん事ばかりであったけれども、それにささやかながらでも取り組ませて頂いとりましたら、六月という一月は大変広大なおかげの月でございましたというて体験を発表しておられました。しかも、その一月の事がおかげであったと実感されたら、もう感動して言葉になって出んほどしにおかげと実感しておられた。おかげがおかげと実感するからね、神様があのおかげをその程度、又はそのようにおかげという事が分かっておってくれたかと云われる、その心が繁雄さんの心中にかえってくる、たったそれだけの事が、もうものが出らないくらいに感動しておられる。一月の事を振り返ってみさせて頂いたら、なるほど今月の焦点という事に本気で取り組まさせて頂いたけれど、一月振り返ってみると目の粗い事であったが、けれども只、信心もでけませんのに六月という月がたいへん有り難い月でございました。
【 】では、麦をたちながら腐らしたとか、刈ったけれども刈ったままであったとかというのに、私の方には雨にもあわず田植えの時も丁度おしめりにもあわず終わりましたら雨風の…というようなもう本当に私の所の為にとりあげ、田植えを通してです、神様が動いて下さったと‥ほどしのです、おかげを実感さして頂かれる時にね、感動が起こってきた。一月を振り返ってね問題は、だからそれに出来る出来んはともかくとして取り組む事だと思うです。そして振り返ってみるとです、はたして仲良く楽しゅうはたしていっとるのか、仲良ういっとるけれども楽しゅういっとるけれども有り難いというものが伴のうておるかと、例えば鋭く家庭中の事の中に、その事を願わして頂きながらその事に取り組んでいかれて一月間終わってみたら相済まん目の粗い事であったけれども、おかげの方は水も漏らさんほどしのおかげであったと云うておられる。田植えの時にも二つになります孫が、まあいうならば悪そうざかりのもう走って歩きますからもうそれこそいっときでん目が離されないという孫が、乳母車の中でおやつをやっとけば一日機嫌良う遊んでおりました。嫁御が帰ってから「今日あんた本当、おとなしかったね」と本当に今日はおとなしかったと云うて喜びよるのを横で聞かせて頂いて、本当に嫁御は信心がないからああ云いよるけども、私としましては神様の御守護、神様のお守りを頂いておる事を実感したらです、例えば二つにもなる走って歩く子供が、乳母車の中でおやつとかおもちゃを相手におりもせずに一日親達の田植えを見ておるというような事はとても大変な奇跡だと思われた訳です。嫁御は今日あんたはおとなしゅうしてよかったと云うておるけど、私は神様のね、そのおかげそのご守護の中に神様がこうやって守をしておってくださるようにです、おかげを頂いておったという事が、もう本当に胸つまらせてその事を発表しておられました、そうです、私共がおかげおかげと実感する時にです、もう何にも大事です有り難い。本当に言葉になって出らんほどしの私は実感がおかげの実感だと思います。日頃の久富さん信心を知っておるから、なおさら私共聞きながら痛感する訳です。もうこちらまで胸がいっぱいになるぐらいに私、感じました。
私はそして思うた、お話というのは大変なお話じゃなくていいのだなあと、本当に自分を振り返らしてもらえ、又は今まで気付かなかったてころにおかげをおかげと気付かせて頂いておかげっを被って行くという事をあのような感動を持って人に聞いてもらえるという事ですから、信心のお話はやはり内容があり中身がなからなければお話が出来ない事が分かります。私はそのようなね、生き方の中に神様の信用はついてくると思うのです。神様の御信用がついてくる。いわゆる一段一段と御神徳の世界に進んで行く事が出来る、その調子を落としさえしなければ…。ところがね、信ずるという事、神を信ずるという事これはね、例えばそのような云うならば信心からは生まれてこない。【 】神様間違いないなあ、有り難いなあと、ね。
先日、大祓いの時も申しましたように、仲良う楽しゅう有り難い、有り難いなあというところまでですからおかげを受けます。そういう心の状態を神様が見捨てなさらん、いや神様が信じなさらんはずがない。けれども神を信ずるという事はそんな事じゃない。それにはね、仲良う楽しゅう有り難うというその有り難いというものがです、もっともっと深いものにならなければならない。その深い有り難いというものがね、いよいよ限りない有り難いものにつながっていかなければならない。その有り難いという心が次ぎの信心の飛躍になる、修行の土台になる。例えば夜に有り難いと感じたなら、その有り難いというものが明日の御用へのエネルギーともならせて頂くほどしの有り難いというものになってこなければ神様を信ずる事は出来ません。だから只有り難いというのがそこまでに有り難いと思わせて頂ける修行は普通からは生まれてこない。
今日の御理解はね、初めて頂いとる御理解ですよ。『神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子は少ない』とおっしゃるが、そんなら神を信ずる信心は見やすいかなと思うごたるけれどもそうではなくて、今日は神を信ずるという事、その事が難しいんだという御理解ですから初めてです。しかも神様を信ずるという事になればです、そのよしの葉がいわばえつの魚になって泳ぐほどしのおかげになってくるという事なんです。これが渡し賃だと、こう川の中を見よったらそのまま泳いで行ったと。大変な事ですよね。そういう信じ方というのは空海という方は一生修行で終わられたと聞いております。一生を諸国を巡礼して
まわられた、だから日本全国いたる所にお大師様のいわゆる足跡というものが偉大に残っておる。実は非常にこの、いうならば土木屋さんたちが今勉強しておるような学問の学者であったらしいですね、空海という方は。やはり空海のひつというのは、その当時のさんぴつとまで云われるほどしの方だったんですから、やはり学者でおありになった。それであらゆる所で堤を作ったり堤防を作ったり川の流れをいろいろ工夫されたというような事を指図されてまわられたというのがまあ真相らしいですね。けれどもそのそういう事をです、ひとつの修行として全国をまわられたところにですね、いわゆる生き仏様、と人から敬われるほどしの徳を受けられたと思います。しかも信ずる力というものは、そういう例えばね、毎日毎日わらじばきでいわゆる<どうこうにいん>ですかね、の旅を続けられるそういう厳しい修行の中からそのような神様を信ずる、天地の働きを信ずる力が生まれた。だからどうでもね、神様を信ずるとか‥今の程度では今の程度ですから、もっともっと信じられるところのおかげ。
先ほど久富先生と繁雄さんと話しておられる横で聞かせて頂いた。もう何が辛いかと云うたっちゃ、その体が弱いとが辛いと云いかたっぽにゃお金がないとが辛いと云う。「そりゃとても久富さん、ほんなこてもう病気なら自分一人の苦しみだけれどもね、本当に貧乏ちゅうもんはあんた家族中じゃろうがの、家内と子供が一緒に苦しまなならん」「もうお父さん、食べる物がなかの?」「なか、という時には、もう私の家にはほんなもうなーにんなかちゅうたら、ほんなこて水ばっかりの時があったっちゃから、そりゃ大変な苦しい事だったよ」という話をしておられました。あるというのは水だけじゃったと。それを子供がひもじいと云い、家内が明日食べる物がないと例えば云われる、これはもう本当になるほど貧より辛いものはない。なるほど一家中、心中するというような貧苦に迫られてからのという事をですね、新聞紙上なんかでも見ますけれども、そのように辛い。
という話をしておられる中に、先日久富さんのところの共励会の時に佐田さんが発表しておられた事を話しておられました。日田の山奥におられます本田さんという佐田さんの御親戚の方が、もうそれこそお尻にこんな大きな腫れものができて口がない。それでもうとにかく、いちいちお取り次ぎを佐田さんのとこに頂かれる訳ですよね。もう佐田さんを信じきっちゃる訳です。だから親先生にお届けをして下さいと。どうしようかっち。佐田さんが云われた事はね、「大丈夫って
それはもう医者にかからんでんよか。それは必ずおかげ頂くけん」と云うて電話をきられた後にやっぱ心配して、ほんなこて医者にかからんでんよかじゃろかと思うて不安だった心配だったという話をしておられる。で、その話を聞きながら私は横で又申しました。「確かにそうじゃんな、医者にかかっちゃならん、薬を飲んじゃならんという事は決してないけれども、薬を飲むとやはり薬のおかげを信じ、医者にかかるとやっぱ医者でなからなでけんばの、というような事を云うようになるって必ず。だからそこん時こそ力を信ずる力を受ける絶好のチャンスを頂いておるのをですね、これはもったいない話だと。
今日は、北野の中村さんが朝の御祈念の後に参ってきた。この頃なんとはなしに元気がない。この頃信徒会の時も来ちゃった、それもおーそ来ちゃる。したら
電話がかかってきて、「やすえが病院に行くから、熱が出た」と云ったけんが親達がまわって帰らしゃった。昨日の大祓いにも総代さん方がみんな揃うて玉串を上げるのに中村さんはみえていなかった。先日の二十四日の自分の所が中心でされる信心の共励会にはおっちゃなかった。だから中村さん、私がこの通りさして頂いて私がプーっと腹かいとるもんじゃけん又後から出てきてあった。あっちは私の心が敏感にこうすぐ感じる訳。時々はもう高橋さんやら久保山さんやらお気に入りの人達がおんなさるけん、私どんが婆さんはいらんっち親先生が思うてござると今日はそげん云よる。<もう婆さんがいらんで若い者がいいという事は、ないですけれどもですね>けれどもそげん云ってから時にはひがみまで起こる、けども先生がプーっとしちゃるもんじゃけん一生懸命こげん云うて又出てきなさった。「本当に先生、この頃は御無礼ばっかりいたしまして今日もお参りのしがけにちょいと本を開かせて頂いたら『詫びれば許してあげたいのが親心ぞ』というところが出てきたと、雑記帳の中から。「そりけん先生一生懸命お詫びしよる」
「そりゃあんたが悪か、そーに神様が聞きござろうの」と私が(笑)そしてから顔を上げられたけん私が申しました。「中村さん、あんたこの頃御無礼、御無礼じゃないもうあんたの信心が影が薄うなったよ」と。総代が大祓いの時、玉串を上げんという事はどうして出来るか。以前のあんたならば例えば信徒会の時には一番ぐらいにやってきただろう。そして、例えばやすえが熱が出たといやー「私は合楽におるとよ、心配しなさんな」とガチャッと電話をきるようなぐらいの事はでけとったあんただと。それにあんたどうじゃったの、ほんなもうよたりまわって「やすえが熱が出とるそうですけんで」と帰っとろうが。「その上あんたこの頃どうじゃったの、二十四日はあんたおらじゃったげなじゃの」「はつえ、はよ行かんの、家の方は私一人でよかけんで」そりゃ云うかもしれんけれどもね、
あんたの信心はね、年をとっていって力がなくなっていっても神様を信ずる力だけは年とってったら強ならなでけんとよ。「はつえ、何ごと云よるかい、今日はねやすえは【 】おかげ頂くよ。福岡へんからも先生が来て頂くじゃないか、今日は私は行く訳にはいかんばの」と云えたあなただったじゃないかと私は。それを例えば二十四日におらなかった、大祓いの日には玉串を上げにもこなかった信徒会の時には遅く来てから電話がかかってくりゃあうろたえまわって、そういう事でおかげが頂けるか…私がやすえが病院に行く時に行ったっちゃいいけども
信心の【 】あがしこ云うたろうが、そしたらあんたどげん云うじゃんの「やっぱ医者じゃなからなでけんですよ」と云って【 】そういう事でね、私はあんたの今までの過去の信心が難しか、あなたが十年二十年前どうじゃったか、それこそ夜も昼もないごとして椛目がよいをして来たじゃないか、と。あの時分の信心がもうどこにか無くなってしもうた。そしたらあの青い顔がみるみる、なんか赤いものが上に上がってきたです。腹かかっしゃったとじゃろかと思ったら、もうありがた涙が流れて…。「もう先生、時々こげんして気合いを入れてもらわないけまっせん」とこう云う。「先生、もう今日は帰りません。昼の一時の御祈念を頂きますけん、それまでおらせて下さい」「どうぞ、おらせるどころじゃなか」
と云うて今日は一時の御祈念の修行をさせて頂いて帰った。もうほんなこてそん時丁度、高橋さんと繁雄さんがおりました。「この人ばっかりは、おごられるとあげん変わらっしゃる、素晴らしか」と、あそこにいわば中村 菊代さんの信心の面目躍如たるものがある。あれが普通の年寄りならば、ほんなこて年寄りばこげん【 】に云うに違いないけれども、云われれば云われるほど先生、本当に詫びれば許してやりたいのが親心なんてんという事でなかことが分かった。「明日から一時の御祈念に修行させて頂きます。」と云うて今日は帰られました。もうその、そしたらね娘のごとはしゃぎまわって一緒に御飯を頂いたんですよ、時に嬉しゅうしてこたえんちゅう感じでした。しかし信心ちゃ有り難いね。本当におごられてからあげん有り難うなる。さすがにやはり何十年と合楽の信心を頂いておられる、いわゆる信心の後者の人だという事を改めて思わせて頂きましたがね。私共が医者だ薬だという、じゃないけれどもそういう時にそれがね、本当に神様のおかげでという事が分かればいいけれども、やっぱ医者でなからなでけんばのっと、病気によっちゃやっぱ医者でなからなでけんと云うごたる事を云うような事ではでけんじゃないか‥だからそれがそのまま自分のものではないにしましても、中村さんが例えばえみこさんがああいうおかげを頂いた時でも、おそらく心の底から神様を信じきってああ云うたじゃなかろうけれど、佐田さんじゃないけれども心では、「はあ、こげな思いきった事を云うたがほんにおかげ頂きらっしゃるじゃろうか」と思うたと云われるがです、そう云われるところの元気な心を神様がくんで下さる。そやけどなんか親戚中の人達が集まって親戚のお医者さんに連れていかれた。これは本田さんのお話ですよ。そればってん親先生が切るなと云っちゃるけん切らんと云ってからがんばらしゃった。そげん云うちから私ば信じきっとるけん切らんというのじゃなくて、私と同じこつ臆病なんですよね。もうとにかく切るとがえすかけんで半分なそげんとじゃったやろう、と。だからそれでもいい、と。佐田さんが信じきったというのじゃない、自分の事ならですね、それこそ死んでもままよじゃから佐田さんの事なら損はなかろうと思うです。けれどもひれが人様の事である限りはです、やはり云うた後はこげなだいたんな事をいうたが大丈夫じゃろうかと思うたという話をまさきさんとこでしたとこういう。それが丁度大祓いの朝ですね。丁度親先生が四時の御祈念に【 】
つかれるのとほげたのが一緒だった。しかもここからほげるようにとすいだしをつけておった所からはほげずに佐田さんが御神米のあるだけその尻の【 】の腫れとるところにいっぱい御神米をはんなさいと云わしゃった。その御神米をはった所からほげた。さあ出ること出ることその血膿が、まあだ今出よります。というて丁度朝の御祈念に参る前に佐田さんの所に電話がかかってきたとこう云う。ですからやはり信ずる稽古ですから、もう信じきっとるから云うということじゃなくてもいいという。それが横着であったならんにしましても、少しは手が届かんぐらいのところはです、野口さんあたりがですね、ちょいちょい大丈夫がの、
【 】神様はいつも大丈夫としてのおかげを下さるでしょうが。 【 】娘がね孫がその学校にでんでん虫むしを持っていかなん。そうばってんお母さんがどがしこあの広い庭をみまわったけど、いっぴきもおらんげなもん。
「そげなこつがあるもんの、この広い庭にでんでん虫がおらんはずはなか、ちゃんとお願いしとくけん探してんの」と云ってから紫陽花の前で神様を拝んでから
目の前に二匹おったげな「ほーら」と云ってから(笑)それもほんなら信じきっとる訳じゃなかろうばってん、そういう事が云えれるという事なんだね、信心とは。そこにですね、ほんなこて拝んだ目の前に二匹のでんでん虫がおった。それでお友達にも あげられるというてその子供が喜んだ。おそらく、私の周囲におった娘達までが私をちった見直したじゃろうと、まあ云わっしゃらんじゃったばってんね(笑)まあそういう心が読めた、私には。しかしそれは楽しい事でしょうが。家族中の中からみんなから信じられるという事は。それにはまず私自身がね、神様をいよいよ信じれれる信心の修行をさしてもらわなければならん。
今月の信心の焦点は、何というても今月は修行月。もうほんとに一時の御祈念前にはお広前にいっぱいの人が集まって、それこそわれるような御祈念のしんしゅうがあっております。そしてあの塗板に書かれておる一口の御理解を頂いてみんなが帰られる。それがいつもは五十日、今度は本部の方で三十日になりましたから七月いつぱいでございます。だから七月いっぱいをです、繁雄さんがいっちょひと月の間はです、先月の焦点であったところの「仲良う楽しゅう有り難う」という事をまがりなりにも頂き続けさして頂いて、ひと月を振り返ってみた時にこのような信心だけど、このようなおかげを受けておったというほどしの、それこそおかげをおかげと感ずかせて頂いてです、おかげ話をする時にはもう言葉になって出らんほどしに、おかげだと信じれる信心。そういう神様をいよいよ信ずる事が出来る事のための信心修行をですね、私はこの七月の月に頂きたいと思うております。どうぞひとつおかげを頂いてね、参ると思やあ参られる、ね。
今朝からも日田の日の熊荘の女将が参ってきた。二、三日前いっぺん参ってきた。「あんたに一人で私が云いたい事があるから一人で参っておいで」とそして「月次祭ぐらいがね、だいたいお参りが出来るといいけれどなかなか月次祭は晩じゃから夜のお商売じゃからなかなかお参りがでけまい」と私が云うたら、その女将が云う「いいえ、参ろうと思や参られます」と。それなんです。参ろうと思やあたとえ夜の商売であろうがお参りが出来る。だからそういうところにですね、信の力というものは鍛えられます。「今朝の御理解がそのままあんたに云いたい事であったから今朝の御理解を頂きなさい」と云うて申しましたら今日に限ってテープが入っていない。そこでね、私は「今朝頂いた御理解よ」と云うて【 】
こういう御理解であったという話をさして頂いたら、「もう先生、私が頂かなければならない、本当にそこをなるほど先生が人前で云いなさらんじゃったはず」というごたる事でした。それがね、私は本当に今朝ですねあの皆さんに聞いてもらおう思うて忘れとった。それがね『四六の蝦蟇』という事を頂いた。四六の蝦蟇ということは、蝦蟇の脂売りが持っとるのが四六の蝦蟇。前が四本で後ろが六本ある。だから四六の蝦蟇。だからそれをね、四角四面のいわば鏡の中に入れると、自分の姿の見苦しさ汚いもんじゃけん、そしてそれこそ恥ずかしゅうて恥ずかしゅうて脂汗が流れてくる、ね。たらりたらりと脂が出てくる、その脂を何年かかかってから煮つめたのが蝦蟇のこう薬の原料だという訳なんです。それがきりつの特効薬。それはね、いわゆる蝦蟇の脂売りさんの口上なんです。だからね
信心というのは自分の自身の姿というものをね、本当に主人じゃなか女中さんじゃなか板場さんじゃなかあんた自身をねひとつ本気で見るとこういう事もあろうがの、こういう事もあろうがのというような御理解でした。そしたらせんせいその蝦蟇の事がもう本当に波多野さんが横におって一緒に聞いておられました。それで波多野さんに申しました。「私が今云いよる事を聞いたら、波多野さんあたり身がゾクゾクするごとあんたあろうの」と、頂きつけとるもんな、けどこっちは分からんかどうか知らんばってん、というて話した事でしたけれどね。「先生きょうは自動車で出がけにですね、ほんな自動車の目の前にこんな大きな蝦蟇がおったげな。そればひくまいと思うてこうやってきたら、途端に蝦蟇のお知らせを頂いて、もう」というてその事を感激しとる。ほんなこて後から参って来たとが「今のおばしゃんもどうして蝦蟇のごたるの」という。顔がまた蝦蟇のごと、こうしちゃる(笑)それが蝦蟇から蝦蟇へ続いたもんじゃからやっぱ「はあー」と思うちゃった。だからあの蝦蟇が四角四面の鏡の中に入ったら、いよいよ素晴らしい日の熊荘が生まれるじゃろうと私は思うです。(笑)そこからね、本当にねその信ずる力、神様を信じてやまない、それがもうこれだけという事ではない、限りがない。よしの葉を投げたらそれが生きた魚になって泳いで行ったというほどしのですね、信ずるという事をそういうところを焦点にしてです、まーだまーだ信ずる力がないけれども信ずる力をです、佐田さんじゃない野口さんじゃないけれども、知った【 】じゃだいたんと思われるくらいの事がぬかせられるほどしの稽古がね、出来ておる時にはしっかりその人自身が修行が出来ておる時です。
修行の出来よらん時には、絶対気が緩くなってお導きも出来ん信心の話も出来ん本当そうです。話さなければおられない、そう云わなければおられない、自分が信心が一生懸命出来ておる時なのです。そういう意味に於いてのです、今、神様をいよいよ信じて疑わんですむだけのおかげを頂く修行をですね、このひと月の信心の焦点にしたいと思います。どうぞ、そこんとこに焦点をおいてのしっかり一時の御祈念に皆さんお参りをして、しっかりその信心の信ずる力を鍛える修行をさして頂かなきゃなりません。寒ければ人間が必ず縮こまります。暑ければ必ずだらっとなります。お金が出来るともうお金の上へ腰をかけます。健康になりますともう「のどをも通れば暑さ忘れる」でもう苦しかった事を忘れてしまうのが人間のつねです。そこでです、私は今朝御信心に今日からの修行の事をお願いさしてもらいよったら『大きなハマグリがね、もう中の身をこう出してからこうしとるとこを頂いた』中の身をでれーっと出しとるとこを頂いた。死んどるとじゃなかじゃろかと。それを誰かがパッとこうやってあたったらピシャッとそのふたを閉めたとこを頂いたんです。夏はやっぱ暑い、人間がだらしゅうなる。そこんところを一時の御祈念でパッとこうふれてもらうような感じでですね、頂けたら引き締まる。その引き締まるその事がねおかげを頂く元になるのですから、ほんとそういう意味においてね本気でひとつ修行に取り組まさして頂こうじゃないですか。
今月という今月は、いよいよ修行月としておかげを頂いて行きたいと思います。
どうぞ。